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心強いご近所さん

 昨日の朝、登校班の待ち合わせ場所で、皆が空を
見上げていて、真面目にUFOでもいるのかと思っ
てワクワクしたのだが、そこに見えたのは、ワクワ
クするものではなく、モクモクの白い煙だった。
「あれ、何かしら」
「何か、変だよね」
「煙かな、湯気かな」
「たき火かな」
と言っている間に、その煙はみるみる黒くなり、
だんだん、住宅街の空を覆うように大きくなり、
いよいよ、「これは変だ!」と大騒ぎになった。
 とりあえず、興奮ぎみの子供たちを学校へと追い
やり、友達のお婆ちゃんが、同じように火事を見て
いた工事現場のオジサンに、あれ何かしら、ときく
と、オジサンは、ごく普通に、
「火事だよ~」
と答えた。
 登校班の待ち合わせ場所から見ると、方向が私の
家の方に見えたので一瞬ギョッとしたけれど、その
オジサンによると、「道の向こう側だよ。」という
ことで一安心。とはいえ、ご近所だから、やはり、
気が気でない。
 30分くらい経って、ゴミを出すために家の前に
出ていくと、今度は隣近所のおばちゃんたちが飛び
出してきて、「火事よ」「あそこのお婆ちゃん、歩
けないのよ」「どの家なの」と騒いでいた。消防車
が続々と到着し、バスがやっとすれ違えるくらいの
車道は消防車でうまってしまった。
 家の裏に住むおばちゃん、実は、我が家も元はと
いえば、このおばちゃんの土地だったのだが、その
おばちゃんが私とお向かいのお母さんを見つけて、
「ほら、あそこの狭い路地の家だよ。絵具屋さんと
かあるところよ。歩けないんだよ、あそこの婆ちゃ
んは。助けに行こうかしら。でも、邪魔だよね。」
とオロオロしている。消防車がとまっている近くの
飲み屋からは、昔、車のパンクを助けてくれた、金髪
の、まさに「ママ」が飛び出してきて、現場を確認し
に走って行った。
 とりあえず、場所だけ確認してみようと、近所の
おばちゃんたちと一緒に車道まで出ると、煙はさら
に黒く、高く、広がりながら、空へ上っていた。怖い
し、ゴムの焼けるような匂いもひどくて胸が悪くなる。
 それにしても、こういう怖い時、大騒ぎの時、ご
近所で、こうして家の前に集まって、情報を交換し
たり、「怖いですね」と共感したり、「気をつけま
しょう」と励まし合ったりするのは、何のためにも
ならないようで、実は、心強いものだ。東京では隣
に住む人の顔がわからない、と言うが、この辺りは
自治会が機能していて、隣近所は顔がわかるし、ち
ょっと世間話も出来る程度に付き合いはある。自治
会の消防隊もあるくらいで、息子の友達のパパは
その消防隊で、お祭りから、防災訓練から、相撲大
会から、地域の仕事で大忙しだ。
 引っ越してきた時には、こういう付き合いが面倒
だな、マンションが気楽だったな、と思ったけれど、
震災の時、火事の時、こんな風にお婆ちゃんや、お
ばちゃんたちと言葉を交わすだけで、何となくホッ
としている自分がいることにも気付く。ありがたい
ことだ。何だか、この街に認めてもらえている感じ
がする。
 そして、今朝、また、いつものように登校班の待
ち合わせ場所に行くと、友達のお婆ちゃんが、
「知り合いの家だったわ。火元は二階の和室で、お
そらくご主人の煙草みたいだよ。でも1週間は市の
施設に泊まれるから、少しゆっくりできるんですって。
お隣もちょっと焼けちゃったそうだから大変だよね。」
と色々教えてくれた。同じ登校班のママたちは、
ふんふん、と頷きながら、また、
「気をつけましょうね」
と誓い合う。
 お祭りのような楽しい時だけでなく、こんな事故・
災害の時にも、(地元民っぽくなってきたなあ)と
実感できることが、ちょっと心強い。もちろん、災害は
起きてほしくないけれど。
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by akira_dai | 2012-11-28 20:04 | Comments(0)

死に様とは

 いよいよ年末に近づき、世間はすっかりクリスマス
で浮かれている今日この頃、実は、喪中ハガキが届く
季節でもある。
 自分が実父を亡くした時に、喪中というのは、遺族
にとって、何て静かで、何て寂しくて、何て孤独な時
間なのだろう、と、嫌で嫌でたまらなかった。そうで
なくても寂しい正月なのに、それが、たとえ周りのた
めであろうと、どうして、わざわざ、喪に服さないと
いけないのだろう、と、忌々しいような気持ち。
 それにしても、亡くなる年齢にも色々ある。親の年
代、70代であれば、(そういう年頃だな)という、
共感を覚えるし、90代であれば、(大往生だなあ)
と感心するし、10代より下であれば、かける言葉も
無く、驚きが大きい。生まれる時は皆、大体同じよう
に生まれてくるが、死ぬ時は、それぞれ違う。
 先日、中学時代の先生が亡くなった話題をあげたが、
先生は、癌が発覚してから数カ月、自宅で療養しなが
ら逢いたい人にお別れを済ませ、好きなことをして過
ごし、急変してからは、あっという間に苦しまずに亡
くなってしまったそうだ。今日、先生の奥様から電話
が入って、
「まったく、あのとおり、ギリギリまで頑固で自由に
過ごしまして、亡くなる時は本当にすぐで。」
と、ちょっと笑っているような呆れているような感じ
で話してくれた。私ときたら、突然の電話に、気のき
いたお悔みも言えず、先生が亡くなったというのに、
「(苦しまずに)それは良かったですね。」
と、本気で言ってしまった。申し訳ない。
 知っている人が亡くなると、身内でも、
「それは理想的な死に方だな」
などと、まるで死に様を評価するような話しをするこ
とがあるのだが、まさに、先生は理想的な形だと思うし、
最後に自由に過ごせたのも、先生らしいな、と感じる。
 理想的といえば、昨年の今頃、父の叔父、私の大叔
父が亡くなった。97歳だった。6年前に父が亡くな
った時、通夜より前に大叔父が娘さんと一緒に駆けつ
けてくれた時、90歳とは思えない姿勢、力強さ、明
るさに、救われたものだ。
「大叔父を見送るまでは死ぬわけにはいかない」
と、枝のような体をよろよろさせて頑張っていた父は
案の定、簡単に死んでしまったが、大叔父の立派な姿
を見た時に、(このご老人よりも長生きするのは、ど
のみち無理だったな。)と思ってしまったほどだ。
 大叔父がかわいがっていた父が先に亡くなってしま
ったことで、どんなに嘆き悲しむだろうか、と、納棺
前の父の遺体に向かい合う大叔父の背中を心配しなが
ら見ていたら、ごく短い時間、手を合わせてから、父
の顔と体を見て、
「肥えておりますな。」
と一言つぶやいたのには、ちょっと笑った。
「叔父さん、これは、肥えているのではなく、浮腫ん
でいるんですよ。」
と説明したが、わかっているのかいないのか、そのま
ま、ゆっくり葬儀場のロビーの椅子に腰をかけ、まる
で、それが日常のように、ニコニコとして、お茶を飲
み、父の病状や最期の様子を、暗い表情1つ見せずに
聞いてくれたのだった。元気な老人は、元気を与えて
くれるものだなあ、と、感心したものだ。
 その大叔父さんは、やはり90代になる痴呆の奥様
の面倒を見ながら、自分の身の回りのこともこなし、
時には、階下に住む娘一家と一緒に食事をする毎日を
元気に過ごしていたが、昨年のある日、転んでしまっ
たのだという。転んだ後も普通に起き上がり、夜は、
娘一家と一緒に普通に食事をしたが、そこで様子がお
かしくなった。救急車で病院に行ったら、肋骨が数本
折れて肺に刺さっていて、出来る処置は何もなく、
出血多量で、あっという間に亡くなってしまった。
 この時にも、
「97歳で大往生。しかも、苦しまずに出血死。理想
的だ。」
と話題になったものだが、どうも、人が言う「理想的
な死」とは、寝込まず、ぼけず、苦しまず、ころりと
死ぬ、ということらしい。それにしても、そのサッパリ
した死に様も、何とも大叔父らしいなあ、と、私は感心
したのである。本人が何ら意識をしていないところで、
何やら、「らしさ」というものが、死に様にはたらいて
いるような気がする。
 今や医学が急速に進歩して、寿命はどんどん伸びて、
細胞の再生化まで実用化されてくると、いよいよ、物理
的には永遠に生きられるような領域に到達するのかもし
れないが、そうなったら、意識をして、死ぬ時期や死に
様を選択しないといけない時代になるかもしれない。そ
れは、かなり、しんどいなあ、、と、しょうもない想像
をする、喪中ハガキの季節である。
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by akira_dai | 2012-11-23 23:17 | Comments(0)

時の重さ

 今日は中学時代の友達と10年ぶりに会った。先日、担任
の先生が亡くなっていたことを知って、先生のご遺族にギフ
ト券をあげようということになって、集金をかねて久しぶり
に会ったのだった。メンバーを集めてくれた男子(そういえ
ば、既に彼も男「子」ではないのか!)も途中から参加する、
というので、ちょっとドキドキの朝となった。
 10年ぶりに会った友達は、10年前に私の結婚式に来て
くれた時と大きく変わらず、相変わらず可愛かった。そう、
彼女はおとなしかったけれど、私が思うにクラス一の美少女
だったのである。我が相棒も、
「結婚式に来てくれた、あの子、かわいかったよなあ」
と、いまだに覚えているくらい。男は美人に弱いのだ。
 そして、彼女と思い出話が出来るかと思ったけれど、そうは
いかなかった。それはそうだ。お互い、会わなかった10年の
間に、色々なことがあった。子供もいるから子供の話しもある
けれど、その他にも色々、何というか、背負っているものが、
ちょっと重くなっているのかもしれない。大体、先生が亡くな
ってしまったことも、一つの重大事件である。
 どうして、人って、長く生きているだけで、何となく、何か
を背負った風になってしまうんだろう。家族がいればいるなりに、
いなければいないなりに、何かちょっと不幸だったり、あがいて
いたり、でも、実は、皆で一緒に過ごした、あの頃よりも、手に
入れてきたものは多いし、自分で出来ることも多くて自由なはず
なのに、何だろうなあ・・・実は、大らかな私でも、時々、ちょ
っと疲れることがある。私の場合は単なる体力不足かもしれない
けど。
 話をいっぱい聞きながら、年をとったものだ、すっかり大人だ
と思っていたところに、男子登場。彼とは30年ぶり・・・と
思いこんでいたら、一度、高井戸の駅で私が出張で電車に乗る寸
前に、ちょっと会っていたらしい。それを聞いたら、そんな記憶
が少し蘇ってきた。けれど、とにかく、吉祥寺行き(だったと思
う)の電車に乗る直前、一瞬だったので、忘れていました。あの
瞬間は、(まともに挨拶も出来ん!すまーーん!)と思ったんで
すよ・・・どうも、ごめんなさい・・・・。
 で、彼も全然変わらなかった。そこからは多少、思い出話が出
来た。不思議なものだ。中学時代はほとんど言葉を交わしていな
かったのに、大人になると気軽に話せる。ほんの1時間、中学校
の時、こうだった、小学校の時はこうだった(私は小学校は違う
けれど)、というような話。そして、お互い子供だったがゆえに、
こんなことをしてしまった、という後悔もあり、今だから言える
恋の話しもあり、それはちょっと苦い話しもあったけれど、話し
をしている「今」が楽しかった。
 父を亡くしてから、少々不安障害ぎみの私だが、こんな風に、
子供時代に一緒に教室で過ごした友人たちの顔を見ていると、
何だか乗り越えられる気がしてくる。あの激しい校内暴力の最中、
思春期の不安定な時期に、時には大きな不安を抱え、友達との関
係に葛藤をしながらも、毎日、教室で顔を合わせていた仲間たち。
皆、同じ場所に、確かにいたのである。そして今も、それぞれ、
葛藤や不安が無いとは言えないけれど、別々の場所で頑張って
いるわけで。はい、私も頑張ります。
 今日は子供の帰宅時間までという制限があったので、ちょっと
短い時間だった。けれど、これで、いつでも会えるように連絡先
も互いにわかったことだし、おばさん姿をさらして気楽になった
ことだし、また、いつでもどこでも気軽に会いましょうね!!
今日はどうもありがとう。
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by akira_dai | 2012-11-09 17:55 | Comments(2)

私の想像だが

 息子が学校から帰ってきた途端、
「今日は誰も遊ぶ友達がいない」
と泣きだした。
 泣きだすことは、今まであまりなかったので、母は
ちょっとうろたえたが、よくよく思いだせば、私も、
子供の時、そんな日はあったと思うし、
「気にするな」
と言ったら、おとなしいタイプの、ケイタ君を誘ったら
断られ、同じくらい、おとなしいタイプのヒデ君を誘っ
たら、そちらにも断られ、撃沈して帰ってきたらしい。
 ケイタ君とヒデ君というのは、どちらも、大変、内気
でインドア派で、親とベッタリ、ずっと家の中で1人で
遊んでいるので、親も困っている、というタイプの2人
である。一時期は、その2人が仲良しだったのだが、
一度だけ2人の間でトラブルがあり、それっきり、気ま
ずいのか、その2人でも遊ばなくなってしまい、その結果、
ケイタとヒデは1人、1人になって、家でゲームをするだ
けになってしまった。息子以外のお友達も、
「あいつは誘っても、いつも嘘をついて断ってくる」
と言っている。
 「あの2人が相手では、仕方ないよ。ユータに限らず、
あの2人は、誰とも遊ばないタイプなんだし。」
というようなことを言って慰めていたら、その2人を誘う
前に、仲良しのタツ君を誘ったが断られたというのだ。
 タツ君とは3年になってから急速に仲良しになり、日曜
でも電話がかかってきて一緒に遊んだり、学校を休めば、
お見舞いの電話がかかってくる。班も一緒で、どう見ても、
両想い?というか、大変な仲良しである。
 ところが、そのタツ君が、
「ママが、ケンちゃんとしか遊んじゃダメ、って言うから」
と言ったそうだ。確かに、彼のママは、クレーマー仲間で、
あるグループのママ友ベッタリではあるが、しかし、さす
がにそんなことまで言うママではない。どちらかというと、
息子のことをかってくれていると、私は思う。
 そんなことを考えているうちに、おそらく、こんなこと
だろうと思った。
 ケンちゃんは、理由はわからないが、最近、いつも、う
ちの息子を「はずす」のである。先に、息子が何かをした
のかもしれないが、現在、ケンちゃんと息子は一緒にまった
く遊ばず、放課後の遊びは、ケンちゃんがいるグループと、
息子がいるグループに2分され、そのグループの細かいメン
バーは日替わりで入れ替わる。
 タツ君は幼稚園時代から、ママともどもケンちゃんと
仲良しだったが、3年になってからは、息子がいる方の
グループと一緒に遊ぶことが多くなった。
 それで、ケンちゃんママが、
「最近、タツ君と一緒に遊ばないよね。」
と、タツ君ママに相談をして、タツ君ママが、
「ケンちゃんとも遊びなさいよ」
と息子に注意したのではないか。
 タツ君にしてみれば、現状では、
ケンちゃんと遊ぶ=ユータと遊ばない
ということであって、それを、
「ケンちゃんとしか遊んじゃダメ」と表現したのでは
ないか・・・私の妄想だろうか。
 しかし、タツ君の態度があまりにも不自然なのである。
まったく、男子の友達関係が面倒くさくなっているのは、
兄弟の少ない時代に姉妹オンリーで育ったママたちが、
口を出し過ぎるからではないか、と、私は推測している
のだが、どうだろう。
 想像にすぎない。しかし、実は確信に近い。そして、
自分だけが息子に口を出さずに見守るということは、
とても辛抱が必要で、なかなか苦しいことである。がん
ばって友達の間を泳ぎ回っている息子に、そっとエール
を送りながら、毎日、胃が痛い母である。
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by akira_dai | 2012-11-06 23:38 | Comments(0)

先生の思い出2

 私たちの世代は、金八先生でいうところの
「腐ったみかん」世代。「積み木くずし」のヒロインは
同じ年。校内暴力がピークに達し、それと同時に、偏差
値偏重教育が問題視されている時期だった。
 が、そのただ中にいる私たちは、それが日常であり、
問題児と言われていた数人の乱暴を見れば多少怖い時も
あったけれど彼らの子供らしい純粋さも理解していたし、
偏差値偏重がどうのこうの言われる中でも、出来ること
しか出来ないわけで、そうプレッシャーを感じているわ
けでもなかったと思う。
 しかし、不良と言われる連中をおさえるためだったの
か、先生は相変わらず大きな声で迫力を保ち、時には、
戦時中の命を懸けた話しをして、(あー、また、始まっ
た)と私が辟易とするような、ちょっとした自慢?話を
始めることも多かった。先生は特攻隊の生き残りである。
が、本当に敵艦に突っ込んだら生き残るはずが無い。訓
練は受けていたが、あと数日で決行という日に終戦を迎え、
運良く生き残ったのである。
 戦時中が如何に大変だったか、という話しが子供の私
には自慢に聞こえていたけれど、思うに、あれは、何か
と問題視されていた私たちの世代に対して、
「今は平和で恵まれているのだ」
ということを教えたかったのではないか。戦争は無いし
その日の食べ物にも困らない、学校にも毎日通える、そ
ういうことが当たり前ではないことを言いたかったのか
もしれない。一度、
「いいか、死んだら全部「無」だぞ。あの世も、生まれ
変わりもないの。何も無くなるの。だから死んでも何も
ならないぞ。生きているうちに、しっかりやらないとい
けないことをやるんだぞ。」
という話しもされたことがある。私は宗教家ではないが、
そのあまりにも現実主義な主張に驚いたが、これも、命
を大切に、ということだったのだろう。
 戦争の話しも好きだったけれど、山の話しも好きだっ
た。登山と写真が趣味で、山がどんなに美しいかという
ことと、それを汚してはいけない、ということを、語る。
戦争の話しの時と違って、そういう時は怖い顔ではない。
笑顔である。先生の山好きのせいで、私たちの遠足は、
いつも登山。さらに3年の時は、近隣の中学は京都に行
くのに、私たちは黒部アルペンルート。京都にあこがれ
ていた私は(ついてない)とガックリしたが、修学旅行
の説明会では、先生が出てきて、保護者にこう言ったそ
うだ。
「うちの学校は悪いのが多いといったって、田舎の不良
にかかったらひとたまりもありません。京都で喧嘩にな
ったらこてんぱにやられるだけです。その点、山は何も
ありません。いるとしても爺さん、婆さんだけで安心で
す。修学旅行は山に限る。」
私はこれを聞いて笑ってしまったが、確かに間違いでは
無い。その場にいた保護者からも笑い声が上がったそうだ。
 と、まあ、個性豊かな先生で、普通は、遠足の写真も
写真屋さんが撮るのに、自らシャッターを切り、卒業アル
バムの写真の大半が先生が撮影した写真である。
「写真屋よりもオレのが上手い」
と自慢していることもあった。生徒たちがリラックスを
するから、確かに表情が違うのである。写真は撮影する
人で変わることも、この時に知った。
 卒業後の先生は、いつも車で現れた。同級生の葬儀の
時も車で現れ、何となく辛い湿っぽい雰囲気の中で、私
が同級生の男子のAと喋っていると、プッとクラクショ
ンを慣らして窓を開け、
「A、がんばれよっ!」
と、笑いながら冷やかして、こちらが返す間もなく、去
って行くような面白いところもあった。
 大学に入ってから、何がきっかけだったかわからない
けれど、吉祥寺で先生を囲んで内輪だけで集まったこと
がある。その時に、
「日本にはヤマトナデシコがいなくなった。」
と嘆いていた。その横で、当時、外人の彼氏とラブラブ
だった一人の女子が、やたら、その彼氏ののろけ話ばか
りをしていて私たちは辟易としていたが、彼女が、ロケ
ットを出して、
「これが私の彼です」
と白人イケメンの写真を皆に披露した時、先生は嫌な顔
一つせず、大真面目な顔で、
「外人と付き合うというのは本当に難しいぞ。文化の違
いを埋めるというのは2人で協力しないと難しい。それ
をよく知っておかないといけないぞ。」
と、彼女に対してではなく全員に対して諭すように言っ
た。わかりきったことではあったけれど、舞い上がって
いる彼女に対して、本当はもっと厳しく忠告したいとこ
ろを、せいいっぱい冷静に、一般論として話したのでは
ないだろうか。
 思えば、英語以外にもたくさんのことを教えてくれた
先生だった。個性が強いだけに思いだすこともたくさん
ある。怖いところ、おちゃめなところ、厳しいところ、
優しいところ、色々あった。30年も前にお世話になっ
た、それだけといえばそれだけだけれど、決して、忘れ
ることは無い。
 この年になると、訃報も増えてくるけれど、先生をは
じめとする故人を思い出すたびに、いつも、一人ぼっち
ではなかったんだな、と、ありがたい気持ちになる。 
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by akira_dai | 2012-11-03 23:49 | Comments(0)

先生の思い出1

 夜遅くに、文章を書くのが苦手な妹から、珍しくメール
が入ったので、何事かと思ったら、中学時代の担任の先生
が、実は7月に亡くなっていた、という内容のメールだった。
毎年、年賀状を出しているので、喪中ハガキが奥様から届い
た、というのだ。私も結婚するまではずっと年賀状を出して
いたのだが、連名で出したら、パパの名前で返事が来たので、
(先生からしたら教え子が多すぎて、かえって年賀状の返事
を出すのも大変で迷惑かもしれない)と、年賀状を書くのを
やめてしまったのだった。今になって、それを後悔しても時
は既に遅い。
 こんな風に、昔は確かにとても濃厚にお世話になり、付き
合いがあった先生や同級生の死を、後になって知ることはま
さしく「衝撃」である。もしも同じような訃報が当時にあれ
ば、全員でお参りし、自分もすぐに駆けつけるに違いないの
に、一時期は毎日長い時間を一緒に過ごした人でも、20数
年も経つと、まるで他人のようになってしまう。私にはそれ
が衝撃で、悲しくて、寂しい。しかし、あの頃、確かに、毎
日、その人の話しを聞き、時には反発を覚え、時には頷き、
受験に至るまで大変お世話になったのである。親よりも長い
時間を一緒に過ごしていた時期もあるかもしれない。
 声も体も大きい先生だった。英語の先生で、入学してすぐ
の担任。そうでなくても、こちらは入学したてで緊張してい
るのに、しずまりかえった教室の前を、右に左に熊のごとく
歩きまわりながら、時には、大きなお腹からずりおちそうな
ズボンをたくしあげて、厳しいことを言うのである。
「もう小学校とは違うぞ。ここは中学だぞ。」
というようなことを、もう子供じゃないんだぞ、ということ
を、全くニコリともしないで鬼のような表情で話すので、気
が小さい私は怖くて仕方がなかった。しかも、それが英語の
先生である。英語の先生は、細くて優しい若い女の先生をイ
メージしていたのに。
 さらに英語の指導がすごかった。ほとんど講義なしの宿題
ぜめ。毎日、教科書で学習した内容を10回、その日のNHK
の基礎英語の内容を5回、ノートに書いて提出する。さらに、
基礎英語は丸暗記しなければならず、前日の基礎英語の暗誦を
させられ、全員が順番に指名され、テキストを見ないで、基礎
英語の全文を言わされるのだ。全員がそれをやらされるから、
授業のほとんどが、それで終わってしまうことも多い。ノー
トに書き写す宿題の回数が1回でも少なかった場合には、何
と顔に油性マジックで落書きをされる。特に、おませな女子
はそれを嫌がって、英語の授業の後は、女子トイレは顔の汚
れを落とす女子でいっぱいになった。
 真面目な私は一度も油性マジックぜめに合わなかったが、
一度、腱鞘炎になって、しかし、それが腱鞘炎とはわからず
保健室に相談に行ったら、若くて美人でさばさばした保健の
先生が、
「そんな宿題は無茶!それを真面目にやりすぎる、あなたも
ダメ!バカ真面目!」
激しく怒りだした。その後の授業で、宿題が甘くなったんだか、
あるいは、私にねぎらいの言葉があったんだか、忘れたけれど、
(先生は保健の先生に叱られたんだな。)と確信した何事かが
あった。けれど、具体的には何だか忘れてしまった。
 そんなに真面目にやっていた私だが、最初の英語の成績は
3で、(英語は好きだけれど難しいものだなあ。)と思って
いた。それで夏休みも、先生の指導どおりに、基礎英語を毎日
5回ずつノートに書き、宿題を真面目にこなしていたら、ある
日、目が開いたような、何か光が見えたような、子供が言葉を
喋り始めるような不思議な感覚になって、英語の「感覚」がも
のすごく身に付いたような感じになった。
 その後は、大した勉強をしなくてもテストの得点も高く、何
だか、感が良くなったような感じで、(もしや、英語の成績が
ものすごく上がるのでは)という気がしていた。
 が、2学期の終業式の日、成績表を配る前に、我が担任であ
る先生が上機嫌に言ったのだ。
「この中に、英語の成績が1から3になった奴がいる。ものす
ごい努力だ。努力すれば、それくらい伸びるんだ。だから、お
前ら、あきらめずに勉強をしろ。1から3はすごい。」
それを聞いて、私は、
(自分は3から5にはなれなかったんだな。せいぜい4なんだ)
と、ちょっとガッカリしたのだが、いざ、成績表を手渡される
時、先生が、ひどく驚いた顔をして、
「よく、がんばったな!」
と言ってくれた。英語の成績は「5」になっていた。
成績表が全員に渡ると、今度は、先生は、
「1から3どころか、3から5になった奴がいるぞ!」
と、また話しを始めて、見習え、見習え、と言うので、私はも
のすごく恥ずかしく、しかし、真面目な私の英語の成績がまさか
「3」だったとは、先生は思っていなかったのだ、と、初めて
気づいたのだった。
 3年でも先生が担任で、ことあるごとに、
「英語の才能がある」
と言ってもらって私は嬉しかったし、あの辛い宿題のおかげで、
英語の感のようなものがしっかり身について、私は高校以降、
英語をほとんど勉強をしたことがない。それでも英語だけはい
つもトップだったのだから、それは全て中学時代の英語の勉強
の成果である。
 英語の他にも色々な話しを聞かせてくれたし、卒業後も何回か
会って、ちょっとした先生の価値観を垣間見たりした。
そんな話しの続きはまた明日。
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by akira_dai | 2012-11-02 23:50 | Comments(0)

AKIRAの日常、考えたこと、など。平凡です。